大判例

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最高裁判所第三小法廷 平成元年(あ)1069号 決定

本籍

福岡市博多区石城町四五七番地

住居

福岡市南区多賀一丁目三番一五号

無職

松岡弘則

大正一一年一一月一七日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成元年九月一一日福岡高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があつたので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人中川瑞夫の上告趣意は、判例違反及び憲法違反をいうが、その実質は単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 貞家克己 裁判官 安岡滿彦 裁判官 坂上壽夫 裁判官 園部逸夫)

平成元年(あ)第一〇六九号

上告趣意書

所得税法違反

被告人 松岡弘則

右の者に対する頭書被告事件につきつぎのとおり上告の趣意を述べる。

平成元年一一月二七日

右弁護人 弁護士 中川瑞夫

最高裁判所第三小法廷 御中

第一、第一審福岡地方裁判所は、被告人に対し公訴事実どおりの事実を認定し、

「被告人は、多量の有価証券の売買を行い多額の所得を得ていたのに、自己の所得税を免れようと企て、所得税確定申告は給与所得及び配当所得のみにとどめ、有価証券売買益を一切申告しない等の方法により、その所得を秘匿し、

第一 昭和五九年分の実際総所得金額が六、四七七万四、九八三円あつたのにかかわらず、同六〇年三月一四日、福岡市中央区天神四丁目八番二八号所在の所轄福岡税務署において、同税務署長に対し、同五九年分の総所得金額が四、二一〇万九、九〇〇円で、これに対する所得税額が三一一万五、四〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、同年分の正規の所得税額一、七七〇万一、二〇〇円と右申告税額との差額一、四五八万五、八〇〇円を免れ

第二 昭和六一年分の実際総所得金額が五億一、五〇九万七、二五一円あつたのにかかわらず、同六二年三月一四日、前記福岡税務署において、同税務署長に対し、同六一年分の総所得金額が四、四一九万六、一〇〇円で、これに対する所得税額が五八七万一、〇〇〇円である旨の虚偽の所得税確定申告書を提出し、同年分の正規の所得税額三億三、三七九万八、六〇〇円と右申告税額との差額三億二、七九二万七、六〇〇円を免れ

たものである」

として、被告人を懲役一年六月及び罰金一億円に処する。被告人において、右罰金刑を履行しないときは金二五万円を一日に換算した期間、被告人を労役場に留置する。本裁判確定の日から二年間、右懲役刑の執行を猶予する。と宣告した。

右判決には、事実誤認、および、法律の解釈適用を誤つた違法があり、被告人は無罪であるとして控訴申立をしたが、福岡高等裁判所は平成元年一一月一〇日控訴棄却の判決をした。

第二、被告人の株式取引状況等事実関係は一件記録に表れているとおりであるが、原判決の法令の解釈適用は最高裁判所の判例に違背し、かつ、憲法に違反している。

一、被告人は所得税法二三八条により刑責を問われるものであるが、被告人のなした行為は、何ら事前の不正行為を伴わない過少申告であつて、同法の「偽りその他不正の行為により」所得税を免れたという構成要件に該当しない。被告人の取引状況には「不正の行為」と目される一点のやましい事実もない。

昭和五九年の大量譲渡の件、あるいは昭和六一年の多数回取引の件にしても、被告人は所得隠ぺいのためのいかなる工作をもしてはいない。被告人が委託した証券会社は野村證券一本で、他に日興証券、山一証券での取引もあつたものの、これは仕事の付き合い上一回的に利用しただけの取引であつた。妻名義を使用したことが数回あるが、これは野村證券側の顧客数を増やそうという営業方針につられて申込をしたものである。

野村證券側は松岡静子名義は被告人の計算による取引であることを熟知し、顧客管理上も被告人と同一視していた。株式売買資金の出入りに時折使用していた銀行口座も、何ら作為的な隠ぺい工作はされていない。

妻名義の福岡銀行高宮支店口座は、もともと妻の開設していた口座で、資金を借りるときは妻に引き出させて借り受け、余つた資金は一部返済の形で振込みしていたものである。

被告人は昭和五九年の大量譲渡の際は、課税要件にあたることの認識が全くなかつたので、後に野村證券の小林から聞き知つて逋脱の犯意は抱いたものの、何の隠ぺい行為も施さず単純に所得申告から遺脱した。

昭和六一年の嫌疑に関しては、被告人が株式売買の回数を自ら管理した事実はない。

前記原田から伝票ないしは取引回数の分かる文書を示されたこともないので、何らかの工作をする余地もなかつたのである。

二、「偽りその他不正の行為」とは脱税罪の実行行為であつて、租税を免れる意図をもつて税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるような偽計その他の工作を行うことをいう。

これに該当するものとしては、従前から、二重帳簿の作成、帳簿書類の虚偽記載、その破棄毀損、虚偽の答弁、収税官吏の買収等の積極的な行為が挙げられていた。

単純無申告に罰則のなかつた当時の最判昭和二四年七月九日は旧所得税法第六九条第一項につき「詐偽その他不正の行為によつて所得税を免れた者を処罰しているが、それは詐偽その他不正の手段が積極的に行われた場合に限るのである。それ故もし詐偽その他不正行為を用いて所得税を秘し無申告で所得税を免れた者はもとより右規定の適用を受けて処罰を免れないのであるが、詐偽その他の不正行為を伴わないいわゆる単純不申告の場合はこれを処罰することができないのである。」と判示し、その後、最判昭和三八年二月一二日、最判昭和三八年四月九日等において「税逋脱の意思によつてなされた場合でも、単に申告書を提出しなかつたという消極的な行為だけでは、詐偽その他不正行為にあたるものということはできない」との解釈が示された。

これら判例に言う「積極的、消極的」の意義につき、更に最(大法廷)判昭和四二年一一月八日は「詐偽その他不正の行為とは、逋脱の意図をもつて、その手段として税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるようななんらかの偽計その他の工作を行うことをいうものと解するを相当とする。所論引用の判例が、不申告以外に詐偽その他不正の手段が積極的に行われることが必要であるとしているのは、単に申告をしないというだけではなく、そのほかに、右のようななんらかの偽計その他の工作が行われることを必要とするいう趣旨を判示したものと解すべきである。……原判決は、単に正規の帳簿への不記載という不作為をもつて直ちに詐偽その他不正行為にあたるとしたものではなく、被告人が物品税を逋脱する目的で、物品移出の事実を別途手帳にメモしてこれを保管しながら、税務官吏の検査に供すべき正規の帳簿にことさら記載しなかつたこと、他に右事実を記載した帳簿もなく、納品複写簿、物品受領書綴または納品書綴によつても右事実が殆ど不明な状況になつていたことなどの事実関係に照らし、逋脱の意図をもつて、その手段として税の徴収を著しく困難にするような工作を行つたことが認められるという意味で、右判例にいう積極的な不正手段に当たると判断した趣旨と解せられる」と判示した。

右の最(大)判昭和四二年は「詐欺その他不正の行為」というためには、「偽計その他の工作」が行われることを必要とするし、これは単に帳簿への不記載という「不作為」では足りないとの解釈を示している。

この大法廷判決に代表される従前の判例の態度は正当であつて、法が逋脱犯の処罰を規定するに当たり、単純に「(故意に)所得税を免れ」とはせずに「偽りその他不正の行為により・・・所得税を免れ」と定めて脱税の方法を限定している以上、可罰性の犯意に枠をはめる必要があるのである。この判例の解釈からすると、事前の不正工作なくして確定申告書に一部の所得を遺脱した本件被告人の事案については逋脱犯は成立しないとすべきである。

三、ところが、通説は、特別の工作を行わずに単に所得を隠ぺいしてなす虚偽過小申告を「詐偽その他不正の行為」に当たるものとする最(小法廷)判昭和四八年三月二〇日を支持している。

この判決は先の大法廷判決の解釈をより明確に示したものと評価されているが、そういう評価は誤つている。

この小法廷判決は、逋脱罪の構成要件たる「詐偽その他不正の行為」とは「偽計その他の工作を行うことをいう」、「帳簿への不記載という不作為のみでは足りない」という趣旨の大法廷判決の解釈と明らかに矛盾している。

右小法廷判決は、前記大法廷判決を敷延したものではなく、まつたく異質の行為まで処罰対象に取り込むべくなされた類推解釈である。

この判決は「真実の所得を隠ぺいし、それが課税対象となることを回避するため、所得金額をことさらに過小に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を税務署長に提出する行為自体、単なる所得不申告の不作為にとどまるものではなく、右大法廷判決の判示する「詐偽その他不正の行為」に当たるものと解すべきである」と判示する。

この判決は、修辞抜きに言い換えると、逋脱の犯意をもつて過小申告書を提出すること自体が「詐偽その他不正の行為」に該当すると言つているのである。

つまり、「詐偽その他不正の行為により」の部分を罰条から削除したに等しい解釈を示している。原判決もこの解釈に従つて被告人に有罪の認定をしていると思われるが、こういう乱暴な解釈があつて良いものだろうか。

法一三八条一項(旧六九条一項)は「偽りその他不正の行為により、第一二〇条第一項第三号(確定申告にかかる所得税額)…に規定する所得税の額につき所得税を免れ、…た者は、五年以下の懲役もしくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」と規定する。この構成要件の「所得税を免れ」という文言それ自体、犯行の類型として「所得を隠ぺいし過小申告書を提出する」行為を包含していること論を俟たない。

法が虚偽の申告書の提出によつて所得税を免れるすべての行為を処罰する意図であるならば、「偽りその他不正の行為により」という限定文言を冠する必要はないのである。

前記小法廷判決は、事前の不正行為を伴わない過小申告行為を逋脱犯から除外しようという法の意図に従つて「積極的行為、工作、作為」という表現で可罰行為の範囲を限定する従前の判例の正当な方針から明らかに逸脱し、罪刑法定主義を無視する解釈を示すものと言わざるを得ない。

右小法廷判決を支持する学説の言うところによれば、事前の不正行為を伴わない虚偽過小申告は、単なる不申告とは明らかに異なるので、もしこれが、「不正の行為」に当たらないとすれば罰条がないことになり、単なる不申告を処罰するのと権衡を失すると言い、あるいは、法人や個人事業主以外の一般個人については、収支に関して記帳が強制されていないから、帳簿の不正作成等の積極的な「工作」をする必要に乏しくその点で脱税を捕捉し難く、かかる「工作」が伴わない故をもつて、「過小申告行為」を逋脱罪に当たらないとすれば、法人等の場合に比して権衡を失する等と、全く法文解釈を無視した徴税目的一辺倒の立場で評価している。

かかる考え方は最早刑罰法規の解釈を放てきして、立法論で人を処罰するに等しい。

貴裁判所におかれては、誤つた判例解釈に惑わされることなく、被告人に無罪の裁判をして正義を実現されたくお願いする次第である。

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